豆瓣的影迷们各人 好,我是细田守。由我执导的影戏 《雀斑公主》很快就要与各人 会晤 了,听说许多 人喜欢我的影戏 《穿越时空的少女》、《夏日大作战》,希望《雀斑公主》也能够受到各人 的喜欢。
《雀斑公主》根据的是18世纪法国的童话故事《美女与野兽》,在我小时候就感到这是个特殊 的故事。通常情形下,美女是不会爱上野兽的,但这个故事推翻了以往的价值观,这种反转很有意思。我1991年大学结业 参加东映动画,就在这时,迪士尼的《美女与野兽》(1991)上映了,一切竟然是那么的美妙,看了《美女与野兽》之后,我感到自己如果能做出这样的作品就好了,正因如此,我一直在想着“有一天我要制造 自己的《美女与野兽》”。
当我有机遇凭借《未来的未来》获得美国奥斯卡提名时,我想是时候可以自负地制造 属于自己版本的《美女与野兽》了,时隔30年我终于做到了。
但是,我以为在现代生涯中反复 经典是没有意义的。
要在现代社会再起 一个经典,须要有必然性。如今互联网正快速生长 ,每小我私家 都到场 其中,我们已经无法脱离互联网来谈论社会。我以为互联网和现实的二元性(即互联网上的自我和现实中的自我)会与《美女与野兽》中的野兽的二元性(外表暴力但心坎 温顺)发生共振。别的 ,在18世纪的版本中,女性被塑造得很单一,而我们要在现代互联网语境中刻画《美女与野兽》,就要确保女性的双重性得到展示 。所以如果让我用几个词来向中国观众介绍这部影戏 ,那就是“现代互联网世界的‘美女与野兽’”。
《雀斑公主》中有一个名为“U”的世界——U是宇宙(universe)的U,也是乌托邦(utopia)的U。这是一个现实中不存在的、宏大的互联网世界,我把它刻画成这样一个全球化的世界,我们在这个差别 的世界里,拥有一个差别 的自我,存在差别 的规矩 。在U世界里,有着现实中不可能的规矩 ,在现实中不被看重的人可能会被看重。年青人神往这样的世界,我也以为应当如此。
因此,我决议与全球创作人员一起设计该世界中的虚拟形象(在影片中称为“As”)。我们请来迪士尼的Jin Kim来设计重要 人物贝儿,他因作为《冰雪奇缘》中的角色设计而著名 ,另一方面,我们邀请在英国的Eric Wong缔造了U世界,他是一位27岁的建筑师,以前从未到场 过影戏 事情 。我们还找到了动画师汤姆·摩尔(Tomm Moore)的爱尔兰Cartoon Saloon事情 室。全球人才的会合,让“U”这个全球性的世界变得越发 有说服力。
20年以来我都在创作以互联网为配景 的影戏 ,刻画互联网是如何转变时期的。以前制造 《数码宝物 》的时候,互联网是一个新颖 的、便利的“东西 ”。 约莫 10年后的《夏日大作战》里,已经是从儿童到老人、每小我私家 都可以通过手机拜访互联网的时期,于是我想到要拍一部关于一个乡下各人 庭的影戏 ,从孩子到老人都与互联网上的仇人 作战的故事。今天,互联网已经不再是一个“东西 ”,而是已经成为“另一个世界”、另一个等同于现实的世界。这意味着我自己就是另一小我私家 ,这是一个多元宇宙的世界,我们拥有多种人生。
世界不止一个,人生不止一个,我也不止一个,这样的时期以前从未存在。
其实当我们在制造 《雀斑公主》时,还没有人在谈论 “元宇宙”。只不外 当Facebook将其名称改为Meta(《雀斑公主》在日本上映后)并表现将把元宇宙作为其重要 业务时,这个观点 开端流行起来。从我们的创作脉络看,可以说是每小我私家 都在期待着元宇宙,这是一个有无穷可能性、可以自由尝试的处所,也是一个与现实规矩 差别 的公正世界。即使是铃,一个生涯在日本农村的平常女孩,也可以在这里尝试她的能力。
现在的年青人以为这个现实世界是不公正的、成人社会是灰色的、充斥矛盾的,他们没有得到公正的对待 。我想,现代的年青人很难对未来有幻想 ,日本社会如今一直留有封建的部门 ,告知着每小我私家 应当如何生涯。这就是为什么年青人须要另一个世界,并希望在其中自由地尝试他们的力气 。互联网正承载着这些人的愿望和期待。我们一直以为每小我私家 都要在可尝试的范畴 中选择自己的未来。但现在我们处于一个多元化的时期,社会的活气是树立在应用每小我私家 的差别 能力之上的。
技术会转变我们对人、生涯和社会的见解 ,年青人也将树立一个新的时期,所以我拍了这部影戏 来支撑他们。其实在制造 影戏 的时候,人们往往会偏向 去描绘一个反乌托邦(dystopia),这些是成年人们忧伤的表示。但是,动画影戏 是为年青人服务的,我希望它们是支撑年青人的,也应当乐观地对待 必将到来的技术生长 。
这就是为什么我们要在互联网上寻求一个差别 的世界,因为我们想自由自在地生涯。我就是想通过《雀斑公主》中的“U世界”,缔造一小我私家 人都向往 的世界。主人公是一个生涯在日本乡下一个角落的女孩,她缺少自负,但由于互联网世界,她可以活着界中心尝试另一个版本的自己。我制造 《雀斑公主》就是为了表达这种希望。
新冠肺炎疫情发作 以来,全世界的生涯、娱乐和交换都不得不通过互联网进行,这种互联网化的社会样态原来可能是十年之后的事情,却随着新冠的产生罢了 经成为现实。中国事 世界上互联网社交和丰盛 生涯等方面最先进的国度,比日本要先进得多,我感觉中国正生涯在未来的世界里。从这个意义上来说,这些变更 让《雀斑公主》成为了一部非常有现代性的作品,中国的观众更可以与《雀斑公主》发生共识 。希望人们一定要在大屏幕上寓目 。
有关影片的结尾,我也想在这里分享一些自己的想法。
可能有人会以为弱小的铃抗衡对方是不公道 的,这或许照旧 以为铃和贝儿是两个差别 的人。我以为,铃就是贝儿,贝儿就是铃,这不是说铃即是 弱者,贝儿即是 强者,而是说在同一小我私家 身上有这两种元素:她缺少自负,但同时也是强盛 的。
因此,并不是说铃必需要酿成 贝儿能力成为强者。在现实中并不自负的铃,通过另一个世界的另一个自己——贝儿,获得了自负、变得刚强。另一个层面是,铃的母亲是为了救一个连名字都不知道的孩子而死,而铃通过发展 克服了已往 的痛苦。
所以,当铃回到现实时,并不能说照旧 那个弱小的铃,如果她变强盛 ,那就是发展 让她变得这样了。铃周围的尊长 们也知道她已经长大了,并尊敬她的决议,让她一小我私家 去了东京。
这就是活出两个自我的意义,也是这部影戏 所刻画的内容。
我以为,影戏 不仅是为了让观众得到感官的享受,还要反应 一些当下的情形。我希望通过拍一些以前从未表达过的影戏 ,扩展 表达的可能性。
从这个意义上说,舆图 事情 室希望尽可能地涉足新的领域,尽可能以动画的方式制造 出以前没有过的影戏 。我想超出“动画应当是什么样子”的固有观念,好比 《雀斑公主》刻画一个庞杂的家庭情况 ,《狼的孩子雨和雪》探讨了只身 母亲的问题,而《怪物之子》涉及了儿童贫困和其他非典范动画的主题。这并不是说我想创作所谓的“社会派影戏 ”,而是有些时候,我们必需面对艰巨的现实问题。这并不容易,但通过创作这样的影戏 ,我在思考如何与现代社会中的观众配合 阅历,虽然现活着界处于一个困难时代,但我想和那些也意识到这些问题的观众们一起,去战胜这个问题,并发生感情 的衔接。
世界は一つじゃない、人生は一つじゃない、自分は一つじゃない。
「Douban」の映画ファンの皆さんこんにちは。細田守です。僕が監督した映画『竜とそばかすの姫』がもうすぐ中国で上映されます。僕の過去作品の『時をかける少女』や『サマーウォーズ』は中国でもファンが多いと聞いていますが、『竜とそばかすの姫』も、多くの皆さんに好きになってもらえると嬉しいです。
この「竜とそばかすの姫」のベースとなったのは、「美女と野獣」という、18世紀のフランスの物語です。この作品は僕にとってずっと特別な存在です。普通、美女は野獣と恋に落ちたりしないわけですが、この物語はそんな価値観をひっくり返す。そんな逆転劇が面白いなと思っています。僕は1991年、大学を卒業して東映動画に入りましたが、ちょうどそのころディズニーの「美女と野獣」(1991年)が公開されました。そしてこの映画が、1992年日本で上映された。とても素晴らしくて、こんな作品が作れたらいいなと思うようになった。そんなわけで、いつか僕なりの「美女と野獣」を作りたいと、ずっと思っていたんです。
「未来のミライ」で米国アカデミー賞にノミネートされる機会を得た時、今なら自负をもって自分の「美女と野獣」が作れるのではないかと思いました。30年越しで、です。
ですが,古典を現代に甦らせるにはそれ相応の理由がないと意味がないと考えています。
古典を現代に甦らせるには必然性が须要 です。現在インターネットは急速に拡大し、皆が加入しています。もはやインターネット抜きでは社会を語れなくなっていますが、インターネットと現実の二重性、つまりインターネット上の自分と現実の自分、それが「美女と野獣」の野獣の、暴力的な外見と優しい内面の二重性と響きあうなと思ったのですね。
また、18世紀のフランスの「美女と野獣」は、当時は封建社会なので、美女は一面性しか描かれていないのだけれども、現代のインターネット世界での「美女と野獣」を描くのであれば、美女の方も二重性を問われるようにしようと考えました。ですので、中国の皆さんに一言でこの作品を紹介するならば、“現代インターネット世界の「美女と野獣」”です。
「竜とそばかすの姫」に出てくる、 “U”(UniverseのUだったり、UtopiaのUだったりします)という世界があります。まだ現実にはない広大なインターネット世界です。僕はその世界を、違う自分がいる、違うルールのある、そんな現実とは違うグローバルな世界として描きました。
“U”の世界では、現実ではあり得ないルールで、現実では評価されない人が評価されるかもしれない。若い人はそういうところに希望を持っているし、そうあるべきだと思っています。
なので、その世界のアバター(劇中では“As”と呼ばれる)は、グローバルなスタッフでデザインすることにしました。主役ベルのデザインをお願いしたディズニーのJin Kimさん、この方は“Frozen”なども担负している著名な方ですが、一方で、“U”の世界を構築してくれたイギリス人のEric Wongさんは、映画の仕事は初めての27歳の建築家で、彼は無名でした。あとは素晴らしいアニメーション作家のトム・ムーア監督率いるアイルランドのCartoon Saloonにも協力してもらい、非常に能力が集う場所になったと思います。それによって、“U”がグローバルな世界だということに説得力を出すことができました。
僕は20年前からインターネットを舞台に映画を作っていて、インターネットが時代を変える様を描いてきました。『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』のころは、インターネットはまだ“新しい道具”でした。そこから約10年経った「サマーウォーズ」のころは、日本では子供からお年寄りまで誰しもが携帯からインターネットに接続可能な時代になっていて、なので、子供からお年寄りまで、田舎の各人 族がインターネットの敵と戦うという作品を考えました。現代では、それはもう“道具”ではなくて“もう一つの世界”になったと思いました。すでに現実と等価なもう一つの世界だと。それは自分自身がもう一つあるということ。マルチバースの世界ですよね、僕らの人生も複数あるという。
世界は一つじゃない、人生は一つじゃない、自分は一つじゃない。そんな時代、今までないですよ。
「竜とそばかすの姫」を作っていたときは、誰も“メタバース”なんてことは言ってなかったんですよね。(日本で劇場公開された後)Facebookが社名をMetaに変えて、事業の柱をメタバースにすると言ったことで普及した。ここまで僕たちが作ってきたものから見れば、誰しもが無限の可能性を持っていて、自由に挑戦できる場所がメタバースには求められているのではないかと言えます。現実とは異なるルールで運営されている公正な世界、つまり日本の片田舎に住むコンプレックスのある少女・鈴でも、自分の能力を試すことが可能な世界です。
今の若い人はこの現実の世の中が公正だと思っていないですよね。大人社会はグレーで矛盾に満ちている、自分は正当に評価されないのではないかと思っている。思うに、今の若い人は未来に思い描くような夢を持ちづらいってことがあるんじゃないかな。日本社会はこれまで封建的な部门 があって、その延長線上として、この人はこうあるべきというような型にはまった世界を常識としてやってきたわけです。だからこそ、若い人はもう一つの世界を须要 としていて、かつそこで自分の力を自由に試したいのだと思います。しかし、今は多様化の時代で、一人一人がもつ違う能力を生かせることが社会のダイナミズムだとされている。
テクノロジーは人間観、人生観、社会観を変化させる。そういう中、若い人が新しい時代を築いていくので、僕としては若い人を応援したくてこういう作品を作った。よくこういうのを映画で描くときはディストピアを描きがちなんですけど、そういうのは大人の憂鬱の代弁だよね。アニメーション映画は若い人のためにあるものだから、若い人を応援するものでありたい。テクノロジーの進化を肯定するものであるべきだと思いました。
僕たちは違う世界をインターネットに求めたいし、そこで自由に生きたいのだと思います。なので「竜とそばかすの姫」の“U”は、誰しもが求める公平な世界にしたいと思いました。
主人公は自分に自负がない、日本の田舎の片隅で生涯している女の子だけれども、インターネット世界があることによって、世界の中心でもう一人の自分を試すことができる。そういう希望を表現したいと思って作ったのが「竜とそばかすの姫」です。
コロナ禍以降、全世界的に、仕事や生涯、遊び、コミュニケーションはインターネットを通して行わざるを得なくなった。原来であれば10年先だったかもしれない、インターネットの世界化が、コロナ禍で現実となった。
中国は世界で最もインターネットにおけるコミュニケーションや人生を豊かにする活動が進んでいる国だと思う。日本よりよっぽど進んでいますよね。中国は未来の世界を生きているように見える。そういう意味で「竜とそばかすの姫」は共感してもらえるんじゃないかと思います。ぜひ大きいスクリーンで観てほしいですね。
次に、映画の結末について自分の考えを共有したいと思います。
弱い存在である鈴が敵に向かっていったのが公道 的ではないと思う人がいるかもしれません。恐らくこういう風に思った人は、鈴とベルが別人だと思ってるんじゃないかなと思います。鈴はベルであり、ベルは鈴なんですよね。鈴=弱い、ベル=強いじゃなくて、同じ人間の中に両方の要素があるわけです。自负の無さと、強さと。
なので、ベルでないと力を発揮できないわけではないんです。現実では自负がなかった鈴が、もう一つの世界でもう一人の自分であるベルを通じて、自负を得て強くなる。
あともう一つは、鈴のお母さんは名前も知らない子供を助けるために亡くなってしまうわけですが、鈴も自分が成長したときに母親の死を乗り越えます。
ですので、現実に戻った鈴が弱いままかといえば、そうではないですよね。強くなったというのは、成長です。鈴のまわりの年長者も、鈴の成長を知り、彼女の断定を尊敬して一人で東京へ行かせます。そこに二つの自分を生きることの意味があって、それを描くための映画でもあるのです。
映画は、ただ観ているその瞬間を楽しむだけのものではなく、今日性を反应 してしまうものだと思う。これまで表現されてこなかったような作品を作ることで、表現の可能性を広げていきたいと考えています。
スタジオ地図はそういった意味では、なるべく新しい領域に踏み出したい、なるべくこれまで作られてこなかったような映画を、アニメーションという技法を通して作りたいと思い、やっています。
僕はアニメーションはこんな感じでしょうという固定观点 の範囲を超えたいと考えています。例えば「竜とそばかすの姫」では複雑な家庭環境を描き、「おおかみこどもの雨と雪」ではシングルマザー、「バケモノの子」では子供の貧困など、アニメーションらしくない題材を扱いました。
社会派の作品を作りたいわけではないですし、現実のしんどい問題と向き合わざるを得ない瞬間もあって、生易しいものではないですが、しっかりそういうものを作ることで、現代を生きる観客とどう生きるかを一緒に考え、共感を得たいと思っています。